昭和52年11月28日 朝の御理解



 御理解 第19節
 「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」

 来て下さっても、おかげの頂けれる働きを、取り次いで下さらなければ、意味がない。ただ金光様と唱えるところに、すぐお取次の働きが始まると言う事ではない。金光様と唱えられたところに金光大神様が来て下さる。そして願いをいうならば、いちいち聞いて下さる。その願いが成就するせんは、結局金光様を唱える者の心次第である。お取次を願う者の心次第だと言う事です。金光様とこう一心に縋る所に、そこにお取次の働きがすぐに始まると言う事ではない。
 昨日福岡の高橋さんところの奥さんが、高校時代のお友達御夫婦をお導きして参ってみえられた。中学校の先生をしておられるそうですが、やはりなかなか様々な、人間に難儀がないと言う事はない。願わずにおれないことがないじゃない。誰でもあるんだけれども、それを願うすべを知らない。お取次を頂くと言う事を知らないというだけである。もし、ほんとにお取次の働きが、このようにはっきりと頂けると言う事が分かったら、もう誰でも、金光様の御信心になることだろうけれども。
 悩みは持ったまま、そして自分が自分でその、悩みから抜け出ろうとしたり、手だてをしたりするだけのことである。お取次を願うそしてそこから、お取次の働きというものが頂けるための、信心をさしてもらうと。ま、そんなことを話させて頂いたことでしたけども、その後にこういうお届を、高橋さんされます。「あたくしこの頃、夜の御祈念の時に、必ず大祓信行続けさしてもらうけれども、最近は、朝の御祈念の時にも、大祓信行をさせて頂きます。
 ところがこの頃はっきり、御祈念の心の状態というものを、自分で感じれるようなことは、必ず御祈念の後に大黒様を拝ましてもらう。いわゆる福神いうならば、親先生のお取次を願う。もう柏手してっとこう、親先生と唱えた途端に、大黒様がニコッとして下さるときがある。かと思うといくら、親先生親先生と言うてお願いしても、っと横を向きなさってから、こっちを向きなさらんことがある。不思議なことおかしな話のごとあるけれども、実際それを私は感じます。
 とこういうこれは皆さんも、体験されておることと思うですね。私しも毎朝この控えに出てまいりましたら、三代金光様のお写真に向かって【 】。もうほんとににこやかにして下さっておる時があるかと思うと、も厳しい厳しい、お顔をなさることがあります。私しそのことをお取次させて頂きながら、これはどういういうならば、働きだろうかと思わせて頂きましたら『傘』を頂くんです。しかもその傘が『ちょっと破れておる傘』を頂くんです。まいうならば傘という立派な傘が安心立命であるならばね。
 少しは破れておるけれども、ものの役に立たんというほどじゃないと、いうほどしのまあいうなら、そん時そん時に心が安らぐ。そん時そん時の安心の心の状態を、教えて下さったんだと思うんです。大黒様に御挨拶をする。神様がニコっとして下さる。もうその日はなんとはなしに、心が有り難い。いうならばま破れ傘程度の安心ではあるけれども、今日は神様がおかげ下さるなあ、心ようこちらのお取次を、願いを聞いて下さったなあと、言った様な心の状態が心に開けてくるんです。
 ま、そげなことは神経たい、と言やそれまでです。確かに神経かもしれません。けれども神様がはっきり、氏子に安らぎを与えたい。安心のおかげを頂かせたい。その安らぎに、その安心に又はその信心の喜びに、神様がおかげを下さることができる、いわばういう、神様と私どもとの間には、そういうひとつのシステムのようなものがあるんです。「おかげのあるもなきもわが心」と仰せられるでしょうが。それで高橋さんいくらお願いしてもお願いしても、こちらを向いちゃくださらん。
 ニコッとして下さらん時には、いっぺんね、自分という者を本気で見極めさしてもろうて、はぁ成程こういう心の状態では、こういう汚い心では、神様がこっち向いて下さらない筈だと思うて詫びたり、改まったりさして頂いてまた、お願いをしなおしてご覧。だからいうならば、神様が向こう向いてござる。ずっと横を向きなさる。そう言う事で一日を過ごすと言う事は、これはおかげの受けられない、一日で終わってしまう様な事にすらなりかねないから、そういう時にはね。
 大黒様がニコッとして下さるまでは、自分の心を深く見つめ、反省さしてもらう、お詫びをさしてもら、改まらして頂くと言う事からね、それこそまたつっとこちらを向きなおしても下さりゃニコッと笑うても下さる。そこからおかげを頂けれると言う事でございます。そんなふうにお取次さして頂いた。そこで例えば今日の御理解が分かるでしょう。金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所に行ってやる、と仰せられると言う事は、成程金光様を唱える所に。
 こに金光大神の働きが始まるその姿勢を示して下さると言う事なんです。そこでならこちらの心次第、と言う事に、それからはなるのです。ただ来て下さっただけじゃあいかんのに。来て下さったら、もう私し共が願いが成就することのための働きを始めて下さらなければならない。今日は大黒様が機嫌がええ、ニコニコしてござる。そこに願う事を願う。昨日は私の従兄弟が、従兄弟達がたくさん集まってまいりました。昨日も五十子供まで入れると六十名近くの者が、大坪の家につながる人たちばっかりで。
 まあ午後から晩もう随分遅うまでだったでしょうか、夜の御祈念ぐらいまで、私は早く下がらしてもらいましたけれども、和気あいあいというか、それこそ一年にいっぺんしか、顔を見せない従兄弟たちもおりますから、まいろいろ懐かしい話もいっぱい出て、またここでいろいろ、まあちょっとした催しなんかもしておりましたし、丁度昨日はここの丸少の吹奏楽団が、甘木の教会でなんか演奏を痛しました。
 それで夕方帰ってまいりましてから、その方達が、共励殿をぐるうっととりまわしてですね、それだけ三十六名ですから、いっぱいになるんです。そして最近練習しとります五六曲を、もうそれこそ見事に演、もうみんながそれこそ、舌を巻いてびっくりしました。もう生のいわゆる楽隊をね、聞きましてからもほんとに、感心しとりましたが、私しも実は感心しましたけれども、そう言う様な事で、半日お互い喜び喜びあわせて頂いたことでしたけれども。
 神様にお礼を申さして頂いとりましたら、『宇野重吉ですかね。そすとなんとかしんたろうの、まあ弟がおりますね、俳優のあれが松竹梅のコマーシャルやってるでしょう。なんか喜びの酒だというなんかね。松竹梅というのがあります。あの場面』を何回も頂くんです。私し共がいうならば、お神酒を頂いておると言う事は、私どもも喜びの酒ですけれども、神様もまた喜びの酒でおありになったという感じが致します。
 信心があろうがなかろうが、私は必ずなら大坪家につながる、縁のある人達の上のことを、毎日お願いをさしてもらいます。今年も元気で、例え年に一回ではあるけれども、やはり本家と思うてみんなが集まってくる。そして喜び合う。ほんとの喜びの酒であると同時に、なら神様もまた、喜びの酒でおありになったと言う事です。松竹梅というても、やはり目出度いこと。いわゆる喜びの酒だとこう言っておることも、そこになにか深い意味を感じます。
 私どもの心の状態がね、有り難きもったいなきと言う事も、喜びのそれが心の状態を神様が、一番目出度いとして受けて下さることだとこう思う。というて私し共がいつもその、目出度いとか有り難いと言う事ばっかりではありません。けれどもお取次を頂いてお願いをする時です。いうならば神様がいわゆる大黒様が、ニコッと笑うて下さるというばかりではないけれども、向こうを向きなさったり、横を向きなさったり、又は厳しい表情をなさったりする様な事も、ありますけれども。
 そういう時にはふっと我に帰るという信心。はぁっこんな心の状態ではと、自分の心の中にね、喜び不足であったこと、お礼を申し上げねばならないことに、お礼を申し上げていなかったこと、お詫びせねばならないことをお詫びもせずにおったこと、改めて気づかせてもらって、なら大黒様がニコッと笑うてこっちを向いてお取次をして下さる、いうならば精進をつどつどさせて頂かなければならない。そのへんのところが、私はみそだと思うんです。大黒様を拝むみそだと思うんです。
 時間をかけるぐらいなことではない。結局自分の心を見失っておる時ですね。信心を見失っておる時です。イライラしたり、さみしかったり、悲しかったり、腹が立ったりという時には。ですから神様がいちいち、ならその喜びの顔を厳しい顔を見せて下さるので、私どもはその都度都度に改めて行く事が出来る。そこにはまたいわば、金光大神が来てくれと言う所に、行って下さって、来て下さってそこから、おかげの頂けれるお取次の働きが始まることになるのです。
 今日はこれはもうむかぁし頂いた、御理解ですけれども、『詫びれば許してやりたいのが親心』とこういう。と同時に『かばうのも親じゃから』と言う事を頂きます。最近、願いの信心と言う事が言われます。それは親と言う事が分かれば分かるほど縋らずにはおれない、その前提になるものが、詫びれば私共は、お詫びをせねばならない事ばかりだから心から詫びる。なら大黒様にいうならば心から、お詫びのお取次を願わしてもらいよると、厳しい顔が柔らかな顔に変わって下さる。
 そしてそこに分からして頂く事は、成程親様じゃなあこう言う私しでも、おかばいだてを下さっておかげを下さるんだと分かった時にです。成程かばうのも親じゃからという意味が分かります。親じゃからという詫びれば許してやりたいのが親心が分かり、かばうのも親じゃから、かぼうて頂くのも親様なればこそ、かぼうて下さるんだと言う事が分かってくると言う事が、願いの信心のいわば根本にならなきゃならんのです。
 成程親様じゃなと分かれば分かるほど、だから縋らずにはおれないと言う事になり、いわば縋るいうなら、願いの信心のいうならば、基本のようなものがそこから頂けてくる。大黒様の前にお取次を願う。横を向きなさった。そこでいわばお向きを変えて下されえというて願う。そのただお向きを変えて下され、お向きを変えて下されえと言うて、願うだけじゃでけん。
 改まってお向きを変えて下されと言う事になり、お詫びをしてお向きを変えて下されと言う事になり、そこに金光大神が来て下さって、お取次を下さる働きというものが、そこから始まるんだということであります。金光様と唱えるところに、いうならばお取次の働きがすぐそこに始まる実は始まる。その姿勢そのものが、なら神様が機嫌の悪い顔をしておられる、と言う事はです。もうお取次の働きが始まっとる証拠です。
 だから金光様と唱える所にはもう、お取次の働きがそこに始まるんですけれども、ならお取次をして下さっても、おかげにならなければならないでしょう。そこで機嫌の悪い顔をなさっておられるならば、自分の心の中にです。はあこんな汚い心ではとか、それを気づかして頂いて、改まるところは改まり、詫びるところは詫びて、お詫びさして頂いとりますと、詫びれば許してやりたいのが親心だという働きが生まれてくる。
 そこに親心の実感を自分の心に頂くことが出来るというのです。ほんとにでけもせんのに、神様がこんなに顔を立てて下さる。いうならばおかばいを下さる。成程それは親だからかばわれるのだという、親だからと言う事が分かる。親様だから親だからと分かるところからです。それこそ場合にはご無理も願われることになり、場合には甘えてもよいことになり、縋らずにはおれない。
 もうおのずと縋らずにはおれないという、いわゆる願いの信心が段々でけて来る事になるのです。金光大神、形がのうなったら来てくれと。ま確かに時間空間というものはありません。どこの地の果てから願っても金光大神はそこへ、それこそ電光石火の働きを見して下さる。けども願っておる祈っておる、お取次を頂いておるその心の状態を、あたし共は正していかなければならないと言う事を今日は聞いて頂きました。
   どうぞ。